スーザン・ソンダク 写真論 プラトンの洞窟で のチャプターを読んでみる (再アップ)
●すでに定評のある本に何を言いたいのか。
〇思いついた適当なヨタ話をかいただけなので、皆さん方に置かれましては、くれぐれも以下の文章を信じることなく、ご自分で読まれて判断されることをお願いいたします。
●プラトンと写真
〇人間(囚人)は壁に映る影(ドクサ)を実体だと思い込んで、実際の外の景色(イデァ=善)を見ていない というようなイントロからはじまるが、このマクラから、写真の話がはじまるわけではなく、この話は「写真論」本全体のコンセプトの説明という位置づけということなんだと思います。
●この章で批評されているテキストはなに
〇ソンダクさんが写真という広大無辺の存在を切り取るのに使った方法は文芸批評で、テキストを読み込み「時代」をスパイスにして書かれたものです。具体的にはさまざまな写真をかき集めてそれをテキストにするのではなく、映像化や文章化された写真がメインとなっているようです。 ソンダクさんがなぜ写真に関する文章を書いたのか、また書かなければならなかっとことに関しての言及はないようですが少し知りたいところではあります。
そして、さまざまなテキストの読み込みと咀嚼力は素晴らしく、さすがアメリカの文芸評論家のトップを走っていた人だと思えます。
●次は決め台詞
〇写真を収集するということは世界を収集するということである。
〇写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分のものにすることである。 P10
〇写真は絵画やデッサンと同じように世界についてのひとつの解釈なのである。 p13
こういうのを一発かまされるとへへ~と感心するほかありませんが、決め台詞が後の文章でゆっくりと検証されるということはありませんが、学術論文でもないので作品としての評論を楽しめということだと思います。
もっとも、このあとも(本全体が)決め台詞のてんこ盛りですが、鋭さに感心ばかりしているのではなく、何か引っかかるものを自分の問題として考えると、さらに面白く読めると思われます。
●まとめて
〇分析するのではなく提示する、つまり作品化(文芸作品だよ)することが主眼となっているので、この本で学習するのはお門違いとも言えますし、古典(古くならないもの)となっている理由もよく分かるのですが、この制約のない文芸的文章は写真を考えるための策としては使いにくい(理論化しにくい)ものだとは思いました。