写真で見る暗いアメリカ 

写真で見る暗いアメリカ  (再アップ)


この章のマクラはホイットマンである、(アーバス)の写真で見る(1970年代)の暗いアメリカに対比するシンボルとしてのホイットマンといったところか。

なんて書いたが、ホイットマンの草の葉は読んだ振りをしただけなので、これではいかんと読んでみたが、よく解らなかった(=面白くなかった)、ただホイットマンの生きた時代はアメリカが力をつけてきた時代と重なることがポイントとなるようだ。


また、ここでもほぼ同時代のウオーカ―・エバンズの写真集のタイトルは草の葉の一節『Let Us Now Praise Famous Men(名高き人々をいざ讃えん)』からなので、正統的な明るいアメリカ的なものであることは確かなようだ。


ソンタグアーバスの写真(テキスト)から何を読み取ったのだろう


アーバスの作品でもっとも心を打つ面は、彼女が、彼女が芸術写真の一番迫力のある計画のひとつーー犠牲者や不運なものに眼を向けること、しかしこういう計画につきものの同情を惹く目的はなくてーーに参入したらしいということである。彼女の作品は、嫌悪感も与えるが哀れな痛ましい人人たちを見せる。だからと言って同情心をかきたてることは事はいささかもない。 P40


こうして結局、アーバスの写真で一番心を乱されるのはその被写体ではさらさらなく、その写真家の意識が累積していく印象、つまり提示されているものはまさに個人的な視線、なにか任意のものという感覚なのである。 p47


これはニーチェ風に言うと「怪物と戦う者は、自ら怪物にならぬよう用心したほうがいい。あなたが長く深淵を覗いていると、深淵もまたあなたを覗き込む。」というようなことなのだろう。


私の持っているダイアン・アーバスの写真集(ネットからひろってきたものを、自分で小さくプリントしたものだ)であってさえ、同じようにアーバスの写真を見ていると被写体を通り抜けてくるアーバスの視線を感じる(ああ怖い⁉)のは不思議な体験だ。


さらに、感じられることはアーバスはフリークスの人たちと同じ地平線上に立っていて、とてもフラットな眼の位置からシャツターを押しているということ。


〇ところで アーバスの写真に救いはないのか


アーバスを見ることは写真表現の極北を見るということなので、それを見ることができる歓びはとても大きい。
自分のなかにある様々な夾雑物を拭い去ってアーバスを見ると、違う世界、新しい世界を垣間見ることができる。
救いなんかいらない、アーバスを見ることは充分すぎる体験だ‼


だが、しかしアーバスを語るのはランダムに、多量に設置された地雷原を歩くことであり、道の真ん中を歩いても、端を歩いても確実に地雷を踏むしかないということで、今回はおわり。

 

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