自問自答 3
問い なぜ写真を撮るのか。
答え このあほらしい直球に答えることにあまり意味はないだろう、なぜご飯を食べなければならないのだろうと問うこととと同じことだからだ。
問い それでは、どのような写真を撮りたいのか
答え 基本的なことを言っておくと、私の撮る写真は何の役にも立たない。そして、それで困ることもなく、ぱちぱちと楽しんでいる。むろん、もう少し写真をうまく撮ることや、編集能力を向上させたいとは思っているが、キャリアを積む的な志向はない(のか?)。むろん(ばっかりだけれど)うまくなりたいという志向のなかには、褒めてほしい、自分の撮った写真を見てほしいという願望は入っている。ただ、自分の趣味・指向、年齢や資金的問題などによって、何が何でも実現されなければならないという思いがうすいだけだ。
問い 話がずれた、撮りたい写真だ。
答え 撮っているのは風景写真もふくめて、スナップ写真だが、あるものがあるように収まっていて、驚きのないものがほとんどだ。
例えばとティルマンスやナン・ゴールディングの仲間内(にもかかわらず)を撮った写真のテンションの高さと、眼を惹きつける力はどこから来ているのかを知りたいし、モノを撮ってもビンビン来るテルマンスのソーセージやメイプルソープの花のような写真も、高望みだが撮ってみたいとも思う。
もっとも、すでに自分の才能のなさを見切れるほどには写真を撮ってきているので、ティルマンスのような写真が撮れないから、写真を撮らないということにはならないのは年の功である。
問い 具体的にはどんな写真を撮りたいんだ。
写真は見えたものをカメラを通して再構成(なんでもいいよ、要するに意識すること)するアート。
写真をファミリーアルバムと分つものは、自覚的に撮るということだけだろう。ヴェンダースがアイフォーンで撮った写真は写真ではないといったのは、このような文脈からだろうと思う。
おまけだが金村修がデジタル写真はただのゴミだとといったのは、ただの媒体に過ぎない銀塩フイルムやプリントを神だと思い込んだ錯乱に過ぎないと言っておこう。
自覚的に撮る、そんな面倒なことは嫌だと言いたくなるが、オートマティックに撮って写真になるほどの才能はない、困ったもんだ。
対象 絞り込むのか、拡散するのかはわからないけれど、人を撮りたいとは思う。街や人工物も結局のところ人に収斂するということだろうから。
技術 何もない。表現手段として重要であることは理解している(ホンマに)のだが、めんどうなことは嫌いなので仕方がない。
表現 対象を選択して、なにがしかの技術でもって写す以外に何かがあるのだろうか。
駄文失礼いたしました。