評価の水準原点

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自問自答4

問い 評価の水準原点のようなものはあるのか。

答え 神がいるならばあるだろう、いなければないだろう。

問い それは写真(に限らず)の評価というものはもともと不可能ということなのか。

答え 趣味、嗜好、好き嫌いなど、見る人が判断するための勝手気ままな基準がいろいろあり、これで判断して取り立てて問題はないと思われる。

車の運転で判断を誤ると危険だが、写真のよしあしの判断がおかしくとも、危険が伴うことはあまりない。

評価の基準は制度論的なものとならざるを得ないが、石の塊が美術館にミロのヴィーナスと名づけられて展示されると芸術作品となる、という制度論の話は、いい参考書も多数あるので、下手な解説はやめます。

ただ、私自身との関連はほとんどないものの、写真に関しては、あやふやなシステムさえもないのが現状であり、市場価値を含めて写真の価値を高めるためには、将来的には破壊されるべきものであっても、一度は写真制度らしきものの構築が必要なのかも知れません。
また、何らかのシステムがあると写真を撮る人だけではなく、写真を読んで楽しむ人や、アート写真の何がいいのかがわからないという人への手引き(まともな入門書)もできて、間口は広くなるのではないのでしょうか。


問い 話を戻して、他人の写真を語ることは可能かについて。

答え それは勝手にすればよいことで、それが何ものかを担保するものではない。語ることは解釈するということなんだろうけれど、新しい読み方や、優れた分析を読んだり、聞いたりするとはとても楽しいことだ。例えば、スーザン・ソンタグの暗いアメリカというエッセイ(試論だ)は、ダイアン・アーバスをテキストにした70年代アメリカ論という文芸評論だけれど、アーバスを読み込むソンタグの力量と、アーバスの深さが溶け合った、とてもいい文章だ。

おまけだけれどスーザン・ソンダクは写真評論家ではなく、文芸評論家。


問い さて、写真評論家てどのような人なんだろう。

答え 上の文章の流れでいうと、ある写真をテキストに、その写真の読み方(解釈)を素人ではできないレベルで提示してくれる人だと言っておこう。
そして、その書かれたものは、対象とするテキストから独立した一つの作品として成立するものであってほしい。

また、寿限無のような訳の分からない言葉を連ねて、写真を見た印象を語る写真評論?ではなく、なぜ、いまこの写真がいい写真であるのかを、言葉で説明できている力量のある文章を読みたい。

鶏が先か卵が先かの話ではあるが、優れた写真評論を読むためには、写真の市場価値(投資できる環境があること)が高まらないと難しいだろう。


問い 評論家はコンテストの審査委員ではないということで、写真コンテストの点数はどうつけるのかを考える。 

答え 点数をつける人のが持つ、自分の経験によって得られた思い込みだと推測される、まあ、今まで見たことのない写真に点は付かないということだ。
そして、それは、例えをあげると森山大道が昔コンテストの審査員などもしていたころ、自分の撮る写真のティストに似た写真に高得点をつけていたのは、至極まっとうであるという意味である。

ここで結論めいたことを書くと、自由に撮ったり、読んだり、書いたしようということなんですが、自由とは自己に由るということだと書き添えておきます。