3、出発点としての感動
私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような「写真」の基本的特徴や普遍化を定式化しようとつとめるであろう。p14
まあ、目に見えないものでも存在する言葉なんだから定義するんだという宣言か。
4」撮影者」、「幻像」、「観客」
というわけで、いまや・「写真」に関する<知>の尺度となるのは、私自身である。
私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象となりうることをに注目した。すなわち撮ること、撮られること、眺めることである。P16
ここでなぜかバルトさんは撮ることの主体を「職業的な写真家」としているのですが、なぜなんだかはよくわかりませんが、たぶんバルトさんは撮られるのは好きだったようですが、写真を撮ることは下手だったのでこういうほかなかったのでしょうか。
そして、2でブルデューの話が出ていますが、わたしはこの社会学的な写真の定義(社会に敷衍したありとあらゆる写真を写真ということ)がいいと思っています。
5 撮影される人
結局のところ私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に、『志向するものは』)「死」である.「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。p25
同じようなことをソンタグさんも言っていたような記憶がありますが、ようするに写真は過去しか写らないという「写真」の時間論なのでしょうか。