帰ろうよ

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帰ろうよ  吉増剛造

歓びは日に日に遠ざかる
おまえが一生のあいだに見た歓びをかぞえあげてみるがよい
歓びはとうてい誤解と見あやまりのかげに咲く花であった
どす黒くなった畳のうえで
一個のドンブリの縁をそっとさすりながら
見も知らぬ神の横顔を予想したりして
数年が過ぎさり

無数の言葉の集積に過ぎない私の形影は出来あがったようだ
人々は野菊のように私を見てくれることはない
もはや 言葉にたのむのはやめよう
真に荒野と呼べる単純なひろがりを見わたすことなど出来ようはずもない
人間という文明物に火を貸してくれといっても
とうてい無駄なことだ
もし帰ることが出来るならば
もうとうにくたびれはてた魂の中から丸太棒をさがしだして
荒海を横断し 夜空に吊られた星々をかきわけて進む一本の櫂にけずりあげて
帰ろうよ
獅子やメダカが生身をよせあってささやきあう
遠い天空へ
帰ろうよ